船橋バプテスト教会 主日礼拝 説教要旨 2025年1月12日
「信仰者の心の格闘」 エレミヤ書20章7節~13節
主の神殿の最高監督者であり祭司であるイメルの子パシュフルは預言者エレミヤがこれらのことを
語るのを聞いていました。
彼はエレミヤを打ち、主の神殿にある、ベニヤミンの門で、彼を足かせにつなぎます。
翌日、彼がエレミヤの足かせを解いたとき、エレミヤは彼に「主はあなたの名をパシュフルではなく、『周りから恐怖が』と呼ばれる。」と、言いました。
(1節~6節)
エレミヤは彼に続けてこう言います。
「私はあなたを、あなた自身の、またあなたを愛するすべての者の恐怖の的とする。彼らは敵の剣によって倒れ、あなたの目はそれを見る。私はユダの人をことごとくバビロンの王の手に渡す。彼は彼らを捕囚としてバビロンに連れて行き、剣で打つ。私はこの都のすべての富、労して得たすべてのもの、すべての貴重品、ユダの王たちのすべての宝をその敵に渡す。彼らはそれを略奪し、奪い取り、バビロンへ運ぶ。パシュフルよ、あなたとあなたの家に住む者はすべて、捕囚となってバビロンに行き、そこで死に、そこに葬られる。あなたも、あなたの偽りの預言を聞いた、あなたの愛する者もすべて。」(4節~6節、聖書協会共同訳)この預言は第一回捕囚で現実となります。
彼らはエレミヤの預言ではなく、偽りの預言者の言葉を信じた者たちでした。
エレミヤはそれらを語った後、神に自分の思いのすべてを吐き出しています。
エレミヤの 主が語れと言われることを 語ることに疲れを覚えているのがわかります。
主の言葉は民に対して厳しい言葉でした。彼は民に対して厳しい言葉である「暴虐だ、破壊だ」と大声で叫び続けています。エレミヤに対する人々の風当たりはとても厳しいものでした。
エレミヤの預言はすぐには目に見えるようには実現せず、彼は一日中笑われています。あざけられています。それで、エレミヤは、ともう神の言葉を語るのを止めよう、と思うのですが、
わきあがってくる神の(預言の)言葉を語らずにおられないのです。
彼が民に言った「周りから恐怖が迫る」を、彼らはばかにしてオウム返しにマネしていうのです。民はエレミヤがつまずくのを待っています(7節~10節)。
エレミヤは否定的な気持ちになりながらも、彼は「しかし」と思い直しています。(11節~13節)
ところが、また否定的な思いがもたげてきています。「呪われよ、私の生まれた日は」と、うつ状態です。
イエスのゲッセマネの園における祈りはエレミヤの祈りに似ています。
イエスはひどく恐れもだえはじめ、この苦しみの時を自分から過ぎ去らせてくださいと祈ります。「父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」、と祈られています。(マルコによる福音書14章32節~36節)
エレミヤの心は揺れ動くのです。
現実が神の御心どおりに、御言葉通りにならないのです。
信仰生活は順調なときばかりではありません。思い通りにならないことも多々あります。
信仰者の心の格闘は否定できない現実です。しかし、それを私たちは包み隠さず神に申しあげなければなりません。
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